黄金の風

教員に向いてない教員向けブログ

また「教員は忙しい」系の記事

ちらっとやほおニュースを見るとまたこんな記事が…

 

news.yahoo.co.jp

 

 この前もこの手の記事を書いたが、本当にまあ最近よく目にしますね。1週間に1回くらい。もう何かの陰謀論かっていうぐらい。まあコメとか反響が大きいっていうのが実際のところなんでしょうけど…。ただ、私はこの手の記事に関して色々思うところがあります。この記事は実際の教員の1日的な内容だったので、今回はその観点から論じたいと思うのですが、私の主張を明らかにしておくと、私は「労働時間が長いのは現場の教員サイドにも問題があるんじゃないか」ということを考えています。

 

・そもそも無駄な業務をしていないか、というか無駄な業務だとか何だとかという評価はしてるのかとか

 一応話しておきますと、この記事に書いてあることは私の経験にもかなり当てはまる感じで、見出しにあるような昼食時間の短さなんかはもう現在進行形で日常茶飯事だと感じています。しかし、現場の先生の不満みたいなものを聞いていると、「文句ばっかり言ってるなぁ」と失礼ながらに思うことがあります。例えば、「授業の準備そんな頑張らなくていい説」みたいな感じです。私は数学を担当しているのですが、授業でノートに貼らせるプリントなどは極力印刷しないというか作成しないことにしています。印刷したり作成したりする時間が無いからです。また、無茶苦茶丁寧に教えたとして、それが子どもの本質的な学力を上げることにつながるのか、その評価は難しいと思います。個人的には、ある一定の(教員の)努力は子どもたちの成績に影響を与えるものの、ある一定以上の努力は五十歩百歩くらいの感じでは無いでしょうか。学校には机があり、黒板があり、教科書があり、指導者がおり、タブレットがあり、ノートや鉛筆もある(例えば用意がきちんとされていて、出来ていなければ家庭に連絡して保護者と協力するなど、この学習環境の指導をきちんと行うことが大切です)現代ですから、それで十分なのでは無いでしょうか。それ以上のことは基本的に難しいのでは無いでしょうか。誤解を招くようですが、教師の本分は授業だと考えています。しかし、時間が無いのも事実です。残業時間が多すぎて私たちの心身が削られ、パフォーマンスが低い状態で業務に当たることを考えると、与えられた時間の中で頑張る必要があるのでは無いでしょうか。そうしたときに「仕事は程々でいいや」的な発想も大事です。さらに誤解を招くようなので書きますが、そういう発想の私ですら残業が多いです。つまり、「忙しい忙しい」とか言ってないで、「もうその業務を『こだわって』やるのは諦めてはどうでしょうか」ということが言いたいのです。

 そこで私はさらに提案したいのですが、自分の業務の努力がどれぐらい子どもや保護者、地域社会に還元されているか、正当な評価をしてほしいのです。例えば、これこれこういう指導をしたから平均点が何点上がったとか、道徳の振り返りが充実して子どもたちのこれこれこういう生活習慣が改善したとか、きちんとした評価をする必要があると思います。それは難しいとは思うのですが、教育業界ではこのようなデータが皆無だというのも事実です。私は現場で働いて、労働時間がとんでも無いことになっている一教員として申し上げるのですが、「一生懸命やっているパフォーマンスになっていないでしょうか」ということです。厳しい意見かもしれませんが、もう少し考えてほしいのです。

 

・学校のほとんどの業務は義務ではない

 私の主張をさらに詳しく明らかにしておくと「現在の学校には無駄な業務がありふれているのに、現場の先生たちは前例踏襲ばかりでちっとも改善しようとしないでしょ」となります。これは学校関係者以外のみなさんにも知っておいてほしいことなんですが、学校の当たり前の業務の中には義務では無いものがたくさんあります。例えば「通知表」です。みなさんは「え?」と思うかもしれませんが、調べてみればわかります。下手したら1年間を通して出す必要もないかもしれません(ソースは割愛します。調べてみればすぐ出ます)。そんでもって、他には体育祭とか文化祭とかもそうです。この辺はまあ分かるとは思いますが、そういった学校行事系のものは大体そうだと言えます。だから、それこそ教科書に沿った授業とか、あとは生徒の安全を管理するとかそう言った業務でなければ、ほとんどの場合が「前例を踏襲しているだけ」という形になります。もう少し敬意を込めて話すと「先輩の教員の方々が作ってきたものだから、自分たちもその伝統を引き継ぐ」的な話になります。そのマインドはとても大切なのですが、今教職に就かれている先生方は、いつまでもそれでよろしいんでしょうか。

 かといって、私は体育祭や文化祭を無くせ、というような話がしたいわけではありません。現在のほとんどの業務は昔の人が作ったものだから、今の人が仕事として成立していない場合がある、ということが言いたいのです。通知表を毎学期書くために何十時間もかけたり、時間をかけないと決めて所見を過去のものからコピペとかするんじゃなくて…。体育祭だって内容とかも自由に見直したりできると思うんですよね。深い意味はないんですが、学校というか教員というか日本人というか、全部が全部前例を踏襲しているような気がするんですね。それが教員という仕事の本質っていうか…。まあ公務員だから仕方ないんですが。

 

・前例踏襲しかできないのか

 まあでも前例踏襲しかできない人種でしょ、先生とかなる人たちは…っていうのも、いくら私でも思いつくことで。私みたいに、「それやる必要あります?」とか「私はその仕事量をこなすのは無理ですね」とか空気読まずに言えたらいいんですが、どうしても現場の先生たちはそれができないんですね。やっぱ考えてしまうのは学校の先生になる人たちって、ようは前例踏襲の人生を歩んできた人たちなので…。私だって大した人間じゃありませんが、私は教員になると決めた時に、「教員になるんだったら人生色々脱線しとこ!そうした方が子どもたちに教えられることあるだろうし!」みたいな発想の人だったんですが、そんな人はやはりこの業界には中々いないですね。救いなのは全くいないわけではないというところでしょうか。

 まあ本当に申し訳ないんですけど、毎日の授業の準備に延々と時間をかけるのも、ある意味の「前例踏襲」でしかないというわけです。教科書や環境は昔よりも充実しているわけなのだから、先輩方が一生懸命やってきたように自分もやるんだ!ということではなくて、その分仕事を効率化させて、プライベートでも充実させたらいいだろうに。そうすれば、趣味でプログラミングとかにも手を出す人もいるかもしれないじゃないですか。そしたら、記事に書いてあることがまた一つ解決ですよね。なんでも仕事で完結させるのは良くないというか…まあキリがないんですけどね…

 

まあ、本当にキリがないのでこの手のことはまた別の記事で気が向いた時に話ます。色々ツッコミどころあるので